イエスとブッダ 想念の話
イエスとブッダ 想念の話
イエスの言葉 人の心を汚すもの
マルコによる福音書7章14~23節より>
「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。すべて外から人の中に入って人を汚しうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが人を汚すのである」[聞く耳のある者は聞くがよい]。
イエスが群集を離れて家に入られると、弟子たちはこの譬(たとえ)について尋ねた。
すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中に入って来るものは、人を汚し得ないことがわからないのか。
それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出て行くだけである」。
イエスはこのように、どんな食物でも清いものとされた。さらに言われた、
「人から出てくるもの、それが人を汚すのである。
すなわち内部から、人の心の中から悪い思いが出て来る。不品行、盗み、欺(あざむ)き、好色、妬(ねた)み、誹(そし)り、高慢(こうまん)、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人を汚すのである」。
イエス様はこの様に人を汚すものは、はっきりと(人の内部にある)悪想念であると言われています。
自分を汚しているだけでなく、他の人をも汚してしまうような「悪想念」を糺(ただ)しなさいと言っているのです。
何を食べて良いとか悪いとか、そんなことに気を使うよりも自分自身の中にある「悪想念」を見つけ出し、それを糺して行く方が、遙かに大事なことだと言っているのです。
ブッダのことば 悪口男の話
あるところに、お釈迦様が多くの人たちから尊敬される姿を見て、ひがんでいる男がいました。
「どうして、あんな男がみんなの尊敬を集めるのだ。いまいましい」男はそう言いながら、お釈迦様をギャフンと言わせるための作戦を練っていました。
ある日、その男はお釈迦様が毎日、同じ道のりを散歩に出かけていることを知りました。そこで男は散歩のルートで待ち伏せして、群集の中で口汚くお釈迦さまをののしってやることにしました。
「お釈迦の野郎、きっと、おれに悪口を言われたら、汚い言葉で言い返してくるだろう。その様子を人々が見たら、あいつの人気なんてアッという間に崩れるに違いない」そして、その日が来ました。
男はお釈迦さまの前に立ちはだかって、ひどい言葉を投げかけます。
お釈迦さまは、ただ黙って、その男の言葉を聞いておられました。
弟子たちはくやしい気持ちで、「あんなひどいことを言わせておいて いいのですか?」とお釈迦さまにたずねました。
それでも、お釈迦さまは一言も言い返すことなく、黙ってその男の悪態を聞いていました。
男は、一方的にお釈迦さまの悪口を言い続けて疲れたのか、しばらく後その場にへたりこんでしまいました。
どんな悪口を言っても、お釈迦さまは一言も言い返さないのでなんだか虚しくなってしまったのです。
その様子を見て、お釈迦さまは静かにその男にたずねました。
「もし他人に贈り物をしようとして、その相手が受け取らなかった時、その贈り物は一体誰のものだろうか」こう聞かれた男は突っぱねるように言いました。
「そりゃ、言うまでもない。相手が受け取らなかったら贈ろうとした者のものだろう。わかりきったことを聞くな」男はそう答えてからすぐに「あっ」と気づきました。お釈迦さまは静かにこう続けられました。
「そうだよ。今、あなたは私のことをひどくののしった。 でも、私はその ののしりを少しも受け取らなかった。だから、あなたが言ったことはすべて、あなたが受け取ることになるんだよ」
人の口は恐ろしく無責任なものです。ウワサとか陰口というものは事実と違って、ずいぶんとでたらめなことがよくあります。
お釈迦さまは人前で恥をかかされることを言われてもその場を立ち去ることもせず、じっと相手の話を聞いているのに、口応えもしません。
それでいて、まったく傷ついたり怒ったりしないのです。お釈迦さまは、相手の言葉を耳に入れても心までは入れず、鏡のように跳ね返しました。
ですから、まったくダメージを受けないのです。言葉は時として、人の心を傷つけることのできるナイフになります。
しかし、心がナイフより固くて強ければ痛くもかゆくもないのです。
ひどいことを言う相手を責めても仕方ありません。
それより、自分の心を強くする方が簡単で効果的です。