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長尾先生との出会い その2

長尾先生との出会い その2

ここに長尾先生と出会うまでの経緯と、その後世界癒しの旅に同行して数々の名場面を撮影するに至った話をご紹介させて頂きます。
 

逆境

あの日の劇的な場面に遭遇することによってその後の人生が決定づけられたといえる。

あの日、あの出来事を経験したことにより、その後の人生で塗炭の苦しみを味わうこともあったが、それは同時に産みの苦しみでもあったのではないか、と今にしてそう思う。

その結果、今は磐石の心の基礎を築くことが出来たのだ。
あの日から早や22年が経過したが、人生とは摩訶不思議なものである。
他人様のちょっとした出来事に居合わせたことがきっかけで、10年以上も「世界癒しの旅」をすることになり、そのことが縁で建築現場の作業員が代替医療家になったのだから。

あの日、昭和63年といえば私が40歳を過ぎたばかりの頃である。
その数年前の38歳の頃に、経営していた建築業が破綻し倒産の憂き目に遭った。

以来、多額の負債を抱えこんで、ともすれば自暴自棄になりそうな日々を送っていたが、いつも心の中には「何とかしてこの窮地から脱出したい」というハングリーな精神が満ち溢れていた。

「俺は必ずこの逆境を克服する。いつかきっと」と常に念じつつも、では一体どうすればいいのか、という不安は常に付きまとっていた。
又同時に、逆境時にはよくありがちな人生への疑問や迷いが私の思考の大部分を占めていた。

求 道

これからどう生きたらいいのか、人はどこから来てどこへ行くのか、。自分はどうなりたいのか何を生きがいとすればいいのか、どうすれば幸せな人生を歩めるのか、自分が真に求めているものはお金なのか心なのかと思い悩み、間もなく心の内奥への旅路が始まろうとしていた時期だった。

心に生じた疑問、それを追及するために求めたのは宗教しか考えられず、様々な宗教を遍歴したのだが私の疑問を解くカギはどこにもなかった。

もっと信心しなさい、お金をあげなさい、信者を紹介しなさいと説く既成の宗教からは立派な教義とは相反する組織拡大の為の実践を強いられた。

拝みなさい、と言われれば日夜懸命に拝んではみたものの、拝めば拝むほど「何か違うのではないか?俺はこんなことを求めていたのではない筈だが・・・・、」と疑問が生じる。

そのことを組織の先輩に言うと、まだ信心が足りないもっと拝みなさいと説得されては又拝み、その後には必ずと言っていいほど又疑問が頭をもたげる。

生来の疑問追求癖は教義の解釈にまで及び、経典・仏典を事細かに紐解いていったのだ。

経典・仏典に書かれている一語一句の文字とその解釈。
読むほどに深く、また難解ではあったが教団の教えと比較検討するとどうも違うような気がする。

経典・仏典の教えと相反する教団のあり方の中に組織維持のために翻弄させられている人々の姿が浮き彫りになってくる。

組織の中に入って一心不乱に信仰していると、ふとした時に「これは違うぞ」という思いが頭をかすめる。結果、すべての宗教に失望したが、私の求道心が変わることはなかった。

高橋信次先生のこと

信次先生

心のあり方、それを求め求めている時にGLAの高橋佳子さんの「創世記」という本に出会った。
その本には心のあり方が書いてあったものの、どことなくオカルトじみていて馴染めない。

それでも最後まで読んでみようという気になって読んでいると「父、高橋信次」という文字が目に飛び込んできた。「これだ、この人だ!」との直感を得た。

不思議といえばこれほど不思議なことがあろうか。
高橋信次という名前を目にした瞬間に「この人こそ本物だ」と思ったのだから。
次に求めた本こそが高橋信次著の「心の原点」三部作(三宝出版)であった。

あった、ここにあった、私が求めていたことが。

「心の原点」を読むほどに抱いていた殆んどの疑問が次々と鮮やかに解けたのである。

要約すると、
「人間の幸・不幸は自らの心が作り出しているものである。今の自分という存在は過去の自分の集大成である。故に自らを改めるには過去に犯した過ちの数々を思い出し、これを深く反省することよって過去の罪障が消える。今苦しい、辛いということは過去に苦しみの原因を作り出したからに他ならない」ということが主題であろうか。

また「人が苦しみ少なく生きる為の指針」としての八つの正しい道「八正道」について述べ、天啓を頂いて書いたという心行の実践を説かれている。

他にも多くのことが書かれており、「心の原点」の内容をここに紹介するには多くのページ数を必要とするので割愛するが、いずれにしても私の疑問が一気に解けたのであった。

信次師の本に出会ったその頃は、妻と2人の娘と一緒に八王子市に住んでいたが、出張で松本市の少年刑務所で改修工事に伴う溶接工事に携わっていた。

今は亡きとはいえ信次師の縁に触れたくて矢も楯もたまらず、休みをとって中央線で一路東京へ、そしてGLA本部がある浅草へと向ったのであった。

浅草に着くや尋ね尋ねて歩き、川のほとりに建っていた八起ビルを探しあてたのは、夕闇が迫っている時刻だった。

「ここが信次先生の八起ビルかー」

様々な宗教遍歴の末に辿りついた信次先生のGLA本部であっただけに感慨がひとしおで、暫くはビルの全景を眺めていた。

ややもして意を決して八起ビルに入ると三階に案内され、案内者の方に後継者の高橋佳子さんの講演ビデオを見せて頂いた。

テレビ画面に映しだされた佳子さんは自信たっぷりの様子で心の話をされていた。
佳子さんのことは本で読んである程度は理解できていた話の内容だが、でも何かが違う。
実の父親であり、GLAの初代会長であった信次師の教えとはどこか違うような気がする。

佳子さんは聴衆に向って堂々たる態度でこんな話をされていた。
「ありがたい、という言葉があります。私たちはこの言葉を日常で何気なく使っていますが、よく考えてください。ありがたいとは有り・難いということであって、有ることは難しという意味ですね。だから有り難いのです。有難うございますはここからきています。有り難いとは感謝して頂く言葉ですね」確かこんな話だったかと思う。

「佳子さんは漆黒のビロードの洋服を身にまとい、きれいにメイクをされていたせいか、とても美しい」ビデオを見ていると話の内容よりも佳子さんの美しい顔に釘付けになってしまった。

「これは違うぞ。法を説く身の人がこんなに着飾って講演をするのは変だ。第一若くて綺麗すぎる。」

容姿端麗な人の話を聞くというのは、その美しさゆえに肝心の話そのものよりも心が容姿にとらわれてしまいがちとなる。
だから「これは違う」そう思って失望し、佳子さんが映っているビデオから目を離した。

ここも違う、帰ろう。

そう思って体の向きを変えると広間の中央に信次先生の大きな額入りの写真があるのに気がついた。
その写真の信次師は、剣道着を着て竹刀を抱きあぐらを組んでいる姿だった。

私は信次師の遺影に向いて「信次先生、何故亡くなられたのですか、あなたとお会いしたかったのです。違うんです、みんなみんな違うんです。」
私は座して信次師に向いつ、溢れ出る涙を禁じ得ることが出来なかった。
心を求め求めて数年、やっとここまで来たのに・・・・・。

しかし今、当時のことを振り返ると「違う」からといって何も嘆くことはなかったのに、と思う。

既に信次師の「心の原点」で殆んどの回答を得ていたのだから他へ何かを求める必要はなく、回答を得たあとは実践あるのみ、だった筈。

当時の私を道を求める者、求道者であったと仮定すると、心の探求というものは求めてやまないものなのだろう。実践して自己を確立するまでは求め求めるものなのだろう、と今にして思う。

かくして私はGLAには入会せず、松本の現場へと戻って行った。
その後、信次師の本(全12冊、すべて三宝出版発行)を読みあさり、師の教えを実践に移すよう努力をしたのであった。

園頭広周先生のこと

それから一年も経ったであろうか、ある時、新宿の紀伊国屋書店で「現代の釈尊 高橋信次師と共に」(園頭広周著)という分厚い本に出会い、本のタイトルに惹かれて買った。

その本には信次師のことが書いてあり、自分(著者)こそが過去世において釈尊の一番弟子であった舎利仏(しゃりほつ=シャーリー・プトラー)であり、信次師に認められた者である。とのことであった。

信次師がそう言われるのであればそうかも知れない、とそう思って本を読んだが、あまり感銘は受けなかった。

園頭先生は「正法会」という組織を持っておられ、本では感銘を受けなかったが「会えば分かるだろう」と思い数ヶ月後に開催された講演会に赴く。
会場に着くや、いきなり園頭さんに紹介されたが、第一印象は別に何も・・・・・。

年齢は65歳位で小太り。面と向って初対面の挨拶をしても園頭さんの顔に笑顔が浮ぶこともなく、無骨な感じがする人だった。
福岡弁で話す講演の内容は心の教えについてはあまりなく、主にフリーメイソンの話が多かったが来場者に真摯な人が多いというところに興味を持った。

中高年の人が主流ではあったが若い人も多く、その誰もが熱心に話を聞き入っていたのが印象的だった。

彼等の中に志を共にする人がいる。と思って正法会の青年部に入会する。
この青年部は独自に会合をしたり、あちらこちらで飲み会を催したりしていて楽しかったので年上の友人、長谷川義剛さんを誘って入会した。

それから約2年間、園頭先生が上京の折りに催される講演会へ何度も足を運んだり、青年会の会合に出席したりしたが、肝心の園頭さんの講演にはあまり馴染めないでいた。

話の内容は政治に関することや、先に書いたユダヤの世界戦略(フリーメイソン)の話が多く、又は他を非難することが多かったからだ。

誹謗中傷というものは心が受け付けないようにできているのかも知れない。
それでも講演会や会合があると必ず出席したのは、園頭先生の講演を聞きに行くのが目的ではなく、“心の学びを求める人たちが集う場所に行く”という行為そのものが自己を高めるのではないか、という思いがあったからだ。

昭和62年11月末、横浜の関内にあるYMCAで行われた講演会に参加したのが最後となった。

園頭先生は常日頃、「私が赴く所は例え雨が降っている日でも、晴れて穏やかな天気になる。如来や菩薩は天候を支配するのである」と、あたかも自分が如来であるかの如き話をしておられた。

しかし、その日はあいにく曇天で寒かった。
単純な私はそこに疑問を持ったのだ。講演を聞くともなしに聞いて、何気なく窓の外を眺めると雪がチラチラと降ってきた。
たったそれだけのことで園頭先生は何か違う、と思ったのだ。

講演会の当日に風が強くて寒く、しかも雪が舞っているのは園頭さんは如来や菩薩ではない証拠だ、と思ったのは園頭さんの言葉を基準にするとごく自然な考えだったと思う。

たまたまその日の講演会場の様子が何だか変だった。いつも顔を会わせる筈の若い人たちが深刻な顔をしている。

これはあとになって分かったことだが、園頭さんが何か間違ったことをしたらしく、そのことで青年部の人たちが造反したらしい。
その日を境にして正法会とは縁が切れた。

時を同じくして正法会の東京支部に席を置く主だった人たちも園頭先生に疑問をもって辞めたとのこと。

今でも私は園頭先生に感謝している。
なんとなれば、先生とのご縁があればこそ長尾先生に出会うことができたのだから・・・・。

正法会をやめたあと、親しくしていた元青年部の仲間とは変わらぬ付き合いをしており、その年の12月に行われた会合に参加した。約30人ほど集まったであろうか。

みんなが集まったその席で、青年部の代表みたいな役割りをしていた梅原伸二郎さん(以後、梅さんと称す)が「大阪の岸和田に素晴らしい先生がいるらしいよ。その方は長尾さんといって、信次先生の教えを実践している人らしいんだ。1月17日に東京で長尾さんの講演会があるから行ってみないか」との誘いを受けた。

同席していた橘さんも長尾さんの事を知っているらしく「一緒に行きましょう」と私を誘う。
ただ素晴らしいだけでは分からないから梅さんにできる限りの情報を聞いた。

名前は長尾弘(ひろむ)といい、自宅でマッサージを開業しているが、その治療術は驚嘆すべきもので、多くの難病奇病の人が治っているという。

その頃の私は高橋信次師の教えに出会ったものの、まだまだ実践が足りず人生について真摯に更なる探求をしている時期だったので、梅さんから長尾さんはマッサージ師であることを聞いたその時「なんだ、今度は治療師の先生か、先生はもういいよ」と思った。

「マッサージ師に心の話を聞いたって仕方がないや」と思ったのが正直な感想だ。

梅さんが得た情報によると、長尾さんというマッサージ師は私たちが傾倒していた故・高橋信次師の教えを身をもって実践されているとの由。

その長尾さんは自宅では勿論、出先でも玄関やトイレを率先して掃除をしたり、皆さんの履物をきれいに揃えたりしておられるとのこと。

それを聞いた時、信次先生も同じことをしておられたので「なんだ、信次先生の真似っ子じゃないか、いやらしい」と思った。

講演の内容については梅さんもまったく分からないそうで、乏しい情報にあまり興味が湧かなかったが、その場に居合わせた友人の長谷川義剛氏に「どう?行って見る?」と聞いたところ「ああ、いいよ。行ってみようか」との返事を得た。

私が求めているものとは違うような気がするが、しかし、友人の梅さんや長谷川さんも行くのなら、とその気になった。

師との出会い

長尾先生

昭和63年1月17日、長谷川さんと連れ立って講演会場の豊島公会堂へ行ったところ、会場には既に300~400人位の人が集っていた。

講演会の壇上で話をされている長尾さんは身長160センチ位だが筋肉質ではつらつとしていたが、一見、どこにでもいそうなおじさんという感じの人で、長尾さんからカリスマ性を感じることはなかった。

当時は55歳ではあったが頭髪は真っ白で表情は柔和でにこやかである。
いつも笑っている普通のおじさん、それが長尾さんの第一印象であった。

長尾さんが大阪弁で話される講演内容は殆んど心に関する話であり、私が求めていた問題に触れてはいるものの、誰でも知っている話で「易し過ぎるのではないか」と思ったのがその時の感想である。

話の内容が易しすぎるということについては、のちの講演ではこんな一句を詠まれていた。

「我が道は 易し過ぎなり幼稚なり 人は言えども行いもせず」
なるほど、そういうことか。

知ってる、分かっているといってもただ頭で理解しているだけだった。
良き事や良き話は知識として知っていても実践が伴っていないから、識ってるだけであったとこの時初めて気がついた。

いくら知っていても実践がともなわなければ何にもならない、と長尾さんは語る。

その他、長尾さんの講演会では、
心に生じる様々な感情・・・・、その感情が私たちの心を支配し、苦しみの原因を作っている。心を苦しめる原因となるものとは・・・・・、とまるで信次先生と同じような話だ。

ムチ打ち症が一瞬で治った

2時間の講演が終わったあと、楽屋で治療が始まったのでそれを見に行ったところ、大勢の人が長尾さんの治療の順番を待っており、その奥では長尾さんがニコニコと笑いながら治療をされていた。

それにしても早い、一人あたり1分か2分で不調を訴える方を治してしまう。
「こんな簡単に治ってしまうなんてあり得ない、インチキじゃないのか?みんなサクラじゃないのか?」と思って見ていた。

丁度その時、30代半ばの美しいご婦人が首の治療を受けていた。長尾さんが「頚椎はしっかりしなさい、軽くなーれ」と妙なことを言ったあと、両手で顔を挟みつけて首を右に左にコキッコキッと音を鳴らして折ったあと「はい、ムチ打症はなーおれ」と言うと、その女性は今まで回らなかった首をくるくると回した。

どうやらひどいムチ打ち症だったらしいが、一瞬にして治った様子で、一瞬の出来事に女性はあっけにとられていた。

治療の一部始終を見ていた私は「そんなバカなー!」と思い、傍で一緒に見ていた長谷川さんに「信じられるかい?」って来た聞いたところ、彼はどう思ったのか、ただ笑っているだけ。
多分私と同様に思ったのであろう。

暫くして休憩になったので長尾さんはトイレに向い、私たちはロビーに出て長椅子に腰を下ろし長谷川さんと話をした。

「ねー、長谷川さん、どう思う?さっきのムチ打ち症の女性。あんなことってあるかい?ムチ打ち症があんな風に一瞬で治るなんてあり得ないよねー」と言うと長谷川さんは「うん、俺も信じられない。あんな簡単に治ったら医者はいらないよなー」と。

二人で話していると向こうの方の椅子にさっきの女性が一人で座っているのが目にとまった。早速長谷川さんを促してインタビューに向ったのは単なる好奇心からだ。

私はムチ打ち症が治ったとおぼしき女性に「失礼ですがここに座っていいですか?」と声をかけて了解を得たあと、女性に話しかけた。
「あのー、ちょっとお伺いしたいのですが、さっきの治療ですね、あなたは本当にムチ打ち症だったのですか」と聞くと「はい、そうでした」とのお答え。
「そうですかー。でもですね、ムチ打ち症があんな簡単に治るだなんて、とても信じられないのですよ。若しかしたらあれインチキじゃないですか?こんなことを言っては大変失礼なんですが、あなたはサクラさんと違いますか?」と聞くと、
「とーんでもない。私は長尾先生が大阪から東京へ来られるという話を聞いて今朝、山形の酒田市からやって来ました。

私は日田啓子といいますが、私には主人と二人の子供がいるのですが、7年前からムチ打ち症でとても苦しんでいたのです。左右に首を曲げることが出来ない為に家事が思うようにならず、最近では主人ともうまくいかなくなって家庭破壊寸前でした。この首さえ治れば、と思って東京の順天堂大学病院からあらゆる病院を回ったのですが一向によくならなかったのです。

ところが先ほど、長尾先生に治療をして頂いてすっかり良くなったのですよ。ほれこの通り、回らなかった首がこんなに・・・・」
と言って首を左右に回したあと、感激のあまり目に涙をいっぱい溜めておられた。

事情を伺えば、成る程・・・・・。

「それは大変失礼なことをお伺いしました。申し訳ありません」と侘びを言うと、「いいえ、いいんですよ。それはそうでしょうねー。私は病んでいた本人ですから実際に体験したのですが、見ておられたあなたは一概には信じられないでしょうねー」と言われ、続けて、

「私は長年辛い思いをしていたのですが、先ほど長尾先生のお陰でムチ打ち症が治って嬉しくてなりません。先生には感謝してもしきれないほどです。そこでお伺いをしたいのです。

私のこの感謝の気持ちをどうやって表したらいいのでしょうか?長尾先生にどうお返しをすればいいのか判断がつきません。どうか教えて頂けないでしょうか」そう聞かれた私は愚かにも「そうですねー、お礼ですか。お礼はやっぱりお金しかないんじゃないでしょうか」と即答してしまった。

女性は「そうですよね」と言ったあと、封筒に幾ばくかの現金を入れられたのを目にした。確か10万円位だったかと思う。
「あのー、誠に申し訳ありませんが、このお金を先生にお礼としてお渡ししたいのですが、一緒に行って頂けません?」と言われた。

いやはや、日田さんにはサクラだなんて失礼なことを言ったのだから、これは引き受けるしかない、とそう思った私は「いいですよ、じゃー一緒に行きましょう、先生のところへ」
(長尾さんのことを先生と読んだのはこの時が最初だった)

先生のところへ行きましょう、と一緒に席を立ったその時、長尾先生はトイレから戻って来られたのか、私たちの前を通り過ぎて楽屋へ戻ろうとするところだった。

その刹那、

「先生、ちょっとお待ち頂けませんか」と言って呼び止めると先生は
「はい、何でしょうか?」と立ち止まられた。

「あのー、こちらにおられる女性は先ほど先生の治療でムチ打ち症が治られた方です。どうぞこの方の話を聞いてあげて頂けないでしょうか?」
先生「はい、いいですよ。」と言われたあと、日田さんにその場を譲った。

日田さんは「先ほどは本当に有難うございました。辛かったムチ打ち症がすっかりよくなりました。嬉しくてなりません」と言われると先生は満面の笑みで「そうですか、それは良かったですねー」。

そこで日田さんは例の封筒を差し出し「こんなことは大変失礼だと思うのですが、私の感謝の気持ちでございます。どうぞ受け取って頂けないしょうか」

先生「え?それは何でしょうか?」
日田さん「誠に恐縮で失礼かと思いますが、せめてもの感謝の気持ちでございます」

先生「あなたを治したのは私じゃーないんですよ」と異なことを言われる先生は続けて、

「あなたを治したのは私ではなく、神さまなのですよ。神さまが治したのですから私が頂く訳にはまいりません」

きょとーんとしてお二人の話を聞いていた私は、困った表情をしておられる日田さんに救いの手を差し伸べざるを得なかった。

「先生、口を挟んで申し訳ありませんが、このお方の意を汲み取ってあげて頂けないでしょうか。どうぞ受け取ってあげて頂けないでしょうか」と言うと、
「そうですか、んー、それ程言われるなら」と言われて日田さんの手から先生の手に封筒が手渡された。
すると先生は「この封筒の中身はお金ですか?」と聞かれ「はい、そうです」と答えられた日田さん。

「そうですか、ありがとうございます。これはお金ですね」もう一度、はいと答えた日田さん。
「そうですか、お金ですか。ありがとうございます。ではこのお金は誰のものですか?」又しても異なことを言われる先生。一体どういう流れになっていくのか見当もつかない。

又しても「このお金は誰のものですか?」
日田さんは「私が先生へのお礼としてお渡ししたのですから先生のものです」
先生「そうですか、このお金は私のものですね。では、私のお金ですから私の自由に使ってもいいですか」
また、一体何のことか????

日田さん「勿論、先生のお金ですから先生のご自由にどうぞ。些少で申し訳ありませんが」。

日田さんのその言葉を聞くや先生は「ではこのお金、私の自由に使わせて頂きますね」と言ったあと、両手の上に置かれた封筒の向きを変えて日田さんに差し出し、
「先ほどは首が良くなっておめでとうございます。このお金は私からあなたへむち打ち症が治ったお祝いです。どうぞお受け取り下さい」
まぁー、なんということを・・・・・・。
私は唖然としてお二人の様子を見ていた。

しかし、私よりももっと唖然として言葉もなく、困り果てて立ちすくんでおられた日田さんの顔が印象的だった。

この話の結末は結局また私が口を出して、
「先生、それではこの方がホントに困ります。どうぞ受け取ってあげて下さい」と哀願した結果、暫く考えておられた長尾さんは「そうですか、それ程仰るなら・・・・・」と言って漸く受け取って頂くことになったという次第。

結局そのお金はお世話役の方に預かって頂き、福祉に寄付されたという話は後日談。

日田さんとの間にそんなことがあった後、長尾さんは何事もなかったかのように控え室へ戻られた。
私もそのあとを追うようにして控え室へ入り、治療の様子を拝見しに行くと長尾さんは満面の笑みを浮かべながら多くの人を治療されはじめた。
 

奇跡の癒し

80歳位の男性、耳が聞こえないのだろうか。長尾さんが耳の穴に口を近づけたあと「耳の意識はしっかりしなさい。あなたは本来の使命を果たしなさい。耳の本来の使命とはよく聞こえるようになることです。耳ははっきりと聞こえるようになりなさい」と言って、耳の穴にフッと息を吹きかけた。そのあと、囁くような声で「聞こえますか?」と聞くと、男性は「はい、聞こえます聞こえます」と言って感嘆の声をあげた。

これは凄い。物理的な療法はせず、ただ耳に話しかけただけなのに・・・・・。

次の人は中年女性。足腰が悪いのだろうか車椅子に座っていたが、男性数人で女性を抱えて車椅子から下ろし床に寝かせた。長尾さんは女性の胃に何やら話しかけたあと骨盤のずれを一瞬にして元に戻す。

そして「股関節はしっかりしなさい。歩きなさい」と言うと、女性は自分で立ち上がって歩き出した。
お世話役の人が「車椅子はどうしますか?」と聞くと女性は「もういりません」。

腰痛や肩こり、或いは頭痛で苦痛を訴えていた人たちも一瞬にして治った。
何ということだ。常識では有り得ない、信じられないことがいとも簡単に行われている。

そんなバカな。ぜだ?どうしてこんなことが起こるんだ?と思うが日田さんのことがあるので、もうインチキだとは思わない。

しかしそれにしても患部にただ言葉をかけただけなのに痛みが消えるなんて有り得ない。その有り得ないことが現実に目の前で行われている。しかも治療費は無償ときている。

奇跡の癒しが行われ、皆さんが治った感謝の思いで合掌し感涙にむせっていても長尾さんはただニコニコと笑っているだけ。
いやはや今日はとんでもない場面に出くわしたものだ。
この出来事があって以来、長尾さんは長尾先生になったのは当然といえば当然のことである。

さて、午後からの講演は前記した通り、人が幸せに生きる方法の話が主だが途中、癒しのことについて若干話をされた。その中に、
「今日、皆さんがご覧になられた癒しは私だけの特権ではありません。実はどなたにでも出来るのですよ」と言われたのを私は聞き逃すことはなかった。

「へー、誰にでもできるんだ。では俺にもできるんだ」
単純で根だけは素直な私はその言葉を鵜呑みに信じたのだ。
常識で考えても、今日拝見した奇跡的な癒しがそう簡単に誰にでもできる訳がない。

とそう思うのが普通だが、その時は何故か素直に心の中に入ってきたのを二十余年経った今でもよく記憶している。

“誰にでも出来る。では俺もやってみよう”

そう思った私は今にして思えば愚かといえばあまりにも愚かしい考えだった。

そして翌日からその愚かなことを実践に移したことによって、数日後にはあることを思い知らされる結果となって、以後15年間は封印せざるを得なかったのである。
そのある事とはこうだ。

癒しの封印

この日から3日後のことである。
所用があって会社の同僚の家へ寄った時のことだ。
用が済んでお茶のもてなしを受け同僚と雑談をしていた時、彼の奥さんの片方が難聴で、もう片方の耳が全く聞こえないとのことだった。

そこで私は例の愚かな考えを起こしたのだ。「治してあげよう」と。
この時、奥さんの耳は必ず治る、必ず聞こえるようになるという信念を持っていた。

そこで長尾先生の如く、奥さんの耳に口を近づけてこう言った。
「耳の意識はしっかりしなさい。本来の使命を果たしなさい。耳の本来の使命とはよく聞こえるようになることです。耳は、はっきりと聞こえるようになりなさい」
と言って、先生がされたように耳の穴に向ってフッと息を吹き、そのあとで囁くような声で「如何ですか奥さん、聞こえますか?」と言うと、
「はい、聞こえます聞こえます。横塚さんの声がはっきり聞こえます」

あろうことか、今まで聞こえなかった耳が聞こえるようになったのだ。
「この癒しは誰にでもできます」と、そう言われた言葉を鵜呑みに信じて行った結果のことである。

補聴器をつけなければ聞こえなかった耳が補聴器なしでもはっきりと聞こえるようになった奥さんは「ありがとうございます。耳がとってもよくなりました。ほんとにうれしいです。横塚さん、あなたのお陰です」。
こう言って奥さんは繰返し繰返し「ありがとうございます」と言って感涙されるのであった。

そこで私は長尾先生が日田さんに言われた時の言葉を想い出してこう言った。
「耳が良くなってよかったですね。でもね、どうか私に感謝しないで下さい。あなたの耳を治したのは僕ではなく、実は神さまなのですよ」というと。
「私には神さまが見えません。今、私の目の前で横塚さんが治して下さったのですから横塚さん、あなたに感謝をします。ほんとにほんとに有難うございます」
とこう言って私に向って合掌をされた。
違います、そうではなく・・・・・・、と言っても聞いてくれなかったのだ。

そのあと、過去において耳が悪くてどんなに辛かったかという話をされ、話に区切りがつく度に感謝の言葉を述べられるのだ。
奥さまから繰返し感謝の言葉を受ける内に、愚かな私は又更に愚かになってしまった。

なんとなく気持ちが良くなってきたのだ。
なんとなく偉くなったような気分になってきた。

その刹那、
「これは危ない!魔にやられた」とそう思ったのだ。
奥さんから感謝され、おだてられたり持ち上げられたりしている内にその気になり、すっかり増長慢になってしまっていたことに気が付いた。
こんな危ないことはない。

自分の手によって奇跡の癒しがいとも簡単に行われたら、相手の方は必ずと言っていいほど感謝されるだろうし、感謝の対象は神ではなく自分に向けられるに相違ない。

目の前で自分に向って合掌をして感謝されると、その感謝はどうしても受け入れてしまう自分がいる。

人から感謝を受けたら、その感謝の念は神に返せばいいのだが、それが分からない。
仮に分かったとしても、それは観念上のことであって、現実にはいい気になってしまう。
それがその当時の自分の実態だった。

このとてつもない癒しを行うと、いつしかきっと増長慢になって自分はダメな人間になってしまう。だからもう金輪際癒しはするまい。二度としない。
と心に固く誓ったのであった。

誰にでもできるという奇跡の癒し、確かに私にもできた。
しかし、出来たが故にそれを自ら封印せざるを得なくなってしまったというのは実に皮肉なことではある。

このことが契機となって心の学びをすることになった。どのようなことに遭遇しても、決してゆるぎない心を持つために。
「いつの日にか磐石の心ができた時に癒しをしよう」
とは思わなかった。

自分が癒しをする必要などどこにもない。自分という人間は如何に至らない人間であるか、ということは他ならぬ自分が一番よく知っている。
ならば、自分は長尾先生の事を世に知らしめる為の広報役を行うのが自分に一番適している。とそう思ったのだ。

実践の人、長尾先生のことを多くの人に伝えたい。そしてみんなに幸せになって頂きたい、健康になって頂きたい。
その思いが燃え上がったのはこの頃のことである。
  

偉大なる凡人

長尾先生は手弁当で日本中を回っているとのこと。人々が幸せになって頂くために。
大阪からの交通費やその他すべての費用は自己負担でまかない、行く先々で難病奇病の方の治療をしてもすべて無償であるという。
いやはや、大変な人とめぐり合ったものである。

人に施しつも自らは粗衣粗食に甘んじ、一切求めることもなく、一年365日一日の休みもなく日本国中津々浦々を歩いて、人々に「幸せに生きよ、健やかに生きよ」と説き、病める人には奇跡の癒しを無償で行われる偉大なる凡人、長尾弘師と出会ってしまったのだ。

この日の出来事が私の向後の人生を決定付けるする結果となってしまったのである。
以後20年間、人生行路の紆余曲折はあれど、師が平成20年10月に76歳で逝去されるまで師事したのであった。

黒澤組の照明家 小嶋真二さん

35小嶋先輩 白馬にて

その後、長尾先生と日本国中、そしてやがて世界中を旅することになった訳だが、そのことを語るには小島真二さんのことを抜きにして語ることは不可能である。

当時、私は兄が経営する建築会社(株式会社昭和工業)に勤めていた。
主な仕事はカジ工といって建築現場で鉄筋や鉄骨の溶接やガス切断をする作業であり、私は大型現場で職人さんの頭、つまり職長をしていた。

昭和62年当時は厚木市でNTTの建築現場で若い衆40人程を束ねる親方をしていた。

45若かりし頃

その中の一人に当時60歳であった小島真二さんがおり、八王子にある自宅から厚木の現場への通勤途中の町田市に小島さんの自宅があったので、毎日車で小島さんの送迎をしていた。

小島さんは日本映画照明協会の理事をしておられ、終戦直後の若い頃からずっと黒沢明監督について黒沢作品の「七人の侍」「どですかでん」「生きる」等、殆んどの映画の照明をされていた。

日本の映画界で重鎮である小島さんが、こともあろうに建築現場で地下足袋を履いて働いていたのだ。それにはある事情があったのだが、そのことは擱(お)く。

朝6時に八王子の自宅を出た私の車はほぼ30分で小島さんの家に着く。
町田で小島さんを乗せて厚木の現場まではほぼ40分。

道中、車の中で話すことはと言えば小島さんの映画談義と私の人生談義。
早朝は小島さんを助手席に乗せて大山を前方に見ながら走り、現場作業で終わったあとは疲れ果てた体を大山に沈む夕日が癒してくれた。そんな現場への行き帰りは小島さんの映画談義が実に楽しみだった。

七人の侍の裏話や蜘蛛の巣城撮影時の苦労話は何度聞いても楽しかったものだ。
小島さんの話が途切れた時に私は「心とか人生のことについて」の話を提案して精神世界の話題に誘導するのが常であった。
そんな折りに前記した長尾師との出会いがあったのである。

ビデオ撮影開始

画像の説明

長尾師と出会った翌朝、いつものように小島さんを迎えて厚木の現場へ向う道すがら、昨日の出来事を小島さんに伝えた。
小島さんは「へー、世の中にはよく出来た人がいるものですねー」。

私は「ところで小島さん、僕はその先生の講演や治療をビデオに収録したいと思っているのですが、カメラの扱い方も知らないので来月の講演会の時に一緒に行って頂いて撮影のご指導をして頂けないでしょうか」とお願いをすると小島さんは快諾してくれた。

映画界の重鎮の指導で撮影出来るというのはこの上なく心丈夫なことであるが、本音は小島さんに撮影指導という方便で長尾先生の説かれる“真理の花園”へお誘いしたかったのである。

この頃の私は小島さんだけではなく、出会う人すべての方に長尾先生の話をして、より多くの人に縁をつなげることばかりを考えていた。

人に話すことは日田さんのこと、奇跡的な癒しの御業(みわざ)のこと。
講演会で話される心の話。
人と話すことといえば長尾先生のことばかりで、ことに奇跡の癒しを信じる人は皆無であった。

その現場を見た私が信じなかったのだから、ただ聞いただけで人は信じる訳はないのは至極当然のことである。しかし、そう分かっていても話たくなるのが人情ではないか。

会う人すべてに「むち打ち症が一瞬でね。耳がね、車椅子で来た人がね」と言っても信じられる訳がない。それでも言いたくて言いたくて、人に伝えたくて・・・・・。

その内にみんなから狂人扱いになってしまった。
「あいつおかしいよ。変なことばかり言ってる」と。さもありなん、である。
言葉でもって人に伝わらないのなら、ビデオだ。ビデオで見てもらえば信じてくれるに違いない。と思ったのも動機のひとつである。

こうして翌2月の講演会では、ビデオカメラをレンタルして小島さんの指導で撮影を開始したのである。
奇跡の人、長尾弘師を世の多くに人に伝えたい、苦しみにあえぐ人々を長尾師につなぐことによって幸せに生きて頂きたいという思いで心がいっぱいになった。

子どもや老人にも理解できる易しい話はすべての人に受け入れられるであろう。
西に心苦しき人があらば、師のビデオを与えて「このビデオを見て下さい。このビデオをご覧になって、師が話されていることを日々の生活の中で実践すればきっと苦しみから解放されますよ。幸せになりますよ」と言い、

北に病に臥せる人あらばビデオを見せ「どうぞこのビデオをご覧下さい。このビデオの中には難病・奇病すら治す先生の映像が入っていますよ。このビデオをご覧になって心の有り方を学ばれれば、あなたの病気は必ずよくなりますよ」と言って励ましてあげたい。

長尾師のビデオを撮影し、他の方に見て頂くことで多くの人が救われるに違いない。
その様な思いで私の心の鐘は激しく打ち鳴らされた。

小島さんと共に2月、3月と撮影は続いたが、撮影することが出来ても自宅にはビデオ設備がないために、撮影済みのビデオテープは自転車で20分ほど走ってダビング屋に出しに行った。

数日後の夜にダビングが終わった10本のビデオテープを引き取りに行った帰り道、自転車の荷台にテープをくくりつけてペダルを踏んでいると涙がこぼれてきた。

うれしかった。嬉しくてならなかった。

「このビデオテープをみんなにあげよう。あの人この人、まだ縁なき多くの人々にプレゼントしよう。そしたらみんなが幸せになれる、病から開放されて健康になれるんだ」と思うと心の底から嬉しさがこみ上げてきて、私の心は嬉しさが満ち溢れ涙がながれてきて・・・・。

今、あの時のことを思い出すだけで,又しても涙が溢れそうになってくる。

誰に頼まれた訳でもないのに長尾先生のことを皆に伝えたい、みんなに幸せを分け与えたいというその一心で長尾師の広報係となった。
こうして昭和63年2月からスタートしたビデオ撮影は、長尾師の本拠地大阪で行われることになり、やがて日本中世界中へと旅することになり以来、「世界癒しの旅」は平成13年まで続くことになった。
  

浄心庵へ

浄心庵の写真

昭和63年5月に初めて長尾師の庵へ伺った。その折に知った浄心庵のことをあれこれと書いてみよう。

大阪は難波(なんば)から南海電車に乗ってほぼ30分、忠岡駅で下車。
海の方へ向って歩くこと7分、本道から細い路地へ入り、更に細くなって人が行き交うのがやっとという路地を曲がったところに浄心庵がひっそりと建っている。

「我が門は衆に向いて開きたり、入るも良し出るもまた良し」と師自らが詠われた数奇屋作りの立派な門をくぐると、すぐ右に古風な造りの母屋がある。

門から道場へと続く、ほぼ10メートル程の小道には石畳と玉砂利が敷きつめられ、その左右には木々や見事に手入れされたさつきの花が咲き乱れている。

庵の扉をガラリと開けて中に入ると50畳程の大広間があり、時刻はまだ10時というのに既に10数人の患者さんが治療の順番を待っていた。

ここ、浄心庵では50人以上の人が泊まれるが宿泊費は無料である。
癒しの旅は手弁当、地方でされる癒しは無償、浄心庵での宿泊は無料と何から何まで無償というのは世の常識では考えられないことだ。

この人の名刺には「超常現象治療」とあるが、超常・・・・・、つまり常識を超えているのは摩訶不思議な治療ばかりではなく、すべてにおいて言えることなのかも知れない。

組織はなく、無論宗教団体と縁もゆかりもない不思議な所、それが浄心庵という名の庵である。

広間へ入るとその奥には10畳程もある茶の間があり、前夜からの泊まり客だろうか、5~6人の人が談笑している。

手前の大広間の隣は6畳の治療室で白髪まじりの60年配の男性と、まだ20代の男性の三人のお弟子さんが整体治療をしていた。

この人達の給料のこともあり、流石にここでの治療費は有料で、初診料1万円で2回目以降は5千円どのこと。

浄心庵へ治療を受けに来た方は先ず最初に6畳の治療室でお弟子さんの整体療法を受ける。治療時間は約40分だが、その療法たるや殆んど足で踏むので初めてこれを受けるとかなり痛い。でも効く。

物理療法が終われば、奥の部屋で長尾先生が待っており、超常現象治療を受けることができる。
その治療法はというと、先ず最初に胃を上げ、そのあとは動脈を刺激して血流を促し、最後に骨格の調整をして終わり。

痛みを訴える人には、痛みがある個所を指で触れ、「治りなさい!」というだけで痛みは消えてしまう。
このような次第でどのような症状もほんの2分~3分で治ってしまうのだから凄い。

長いのは患者さんの病状説明。病歴を説明するだけでも5分~10分。長い人になると相談ごとも含めて20分~30分も話す場合もあるそうだ。
それでも先生はいやな顔をせず、いつもニコニコと「ああ、そうですかそうですか」と相手になられている。

愚かなお願い

長尾先生の講演会では、演台に生けられた固い蕾のチューリップが心の話に反応して、その場で開花するという話をよくされていた。

治療にしても、その生き方にしても世間の常識をはるかに超えたことをされる方なので、さもありなん、花だってこの人の話を聞けば反応して開くこともあるだろう。

しかし、私は信じることができるがこの話を聞いた人は一概に信じないに違いない。
事実この話(花が咲いたという)を知人に話したら「お前、病院へ行った方がいいんじゃないか」と言われた。

常識を超えるというのはそういうことであろう。
世の常識を超えたことというのは容易には受け入れ難いものだ。当の私も日田さんの治療を見た時はインチキではないか、と思ったのだから。

この目で見ても信じられないのだから、実際にそれを見ていない人は尚更のことであろう。

信じられない人に理解して頂くためにはビデオに収録するのが一番と思い、忠岡駅前にある花屋さんで固い蕾のチューリップを買い求めた。
まさしく、固い蕾のチューリップがあったのでそれを20本ばかり買って浄心庵へ持ち帰り、早速先生にお願いした。

「先生、このチューリップを開かせてください」と。
今にして思えば恥ずかしいことだが、その時は日頃先生が話されていることを証明したい。
話だけでは信じられないこと、受け入れ難いことはすべてビデオに収録したいと思ったのだが、臆面もなくよくも先生に無理な注文ををしたものである。

花瓶に生けられたチューリップを見た先生は、いつもの様にニコニコされて「はい、いいですよ」とこともなげに返事をされるや、早速チューリップに手をかざされた。

するも間もなく固い蕾のチューリップは開花しはじめたのでこれを収録。
僅か数分で見事に開花したチューリップは、20分もするとまるでカトレアの花のようになって「もうこれ以上開くことは出来ません」とばかりに花びらがそっくり返ったのである。

後から見えたお客さんは口々に「こんなチューリップは見たこともない」と驚かれていたが「チューリップは先生が手をかざしたら開いたのですよ」と話すと2度びっくりされていた。

このビデオは後日評判になったばかりか、帰宅してからくだんの知人にこのビデオを見せると「お前の言ったことは本当だったんだなー」と認めてくれるようになったばかりか、「この先生はいつ東京へ来るのか?東京に見えたときには是非行ってその講演を聞いてみたい」という話になったのだ。

先生の話によると、正しい教えというものにはそれを証明するために理証、文証、現証の三つの証しがつきまとうそうだ。
さしずめ、前記したチューリップのことや奇跡的な治療も現証といえるであろう。
いずれにしても、現証の特徴は常識を逸脱しているということではないか。

師との旅 天使の姿

私は20歳頃から(偉そうな)口髭を生やしていたのだが、1月に日田さんの件を体験させられ、今日は花の現証を見せつけられて言葉もなくただただ脱帽。

この日の夜に髭を剃り落としたのは言うまでもない。
翌日は福山市と広島市で行われる予定の講演会を撮影する目的で同行させて頂くことになっていたので、先生と大阪駅で待ち合わせた。
駅で私の顔を見られた先生は「お髭はどうされたんですか?」と聞かれ、
「はい、心を入れかえました」。

先生と共に乗った新幹線が新神戸を過ぎた頃、先生はこの様に言われた。
「横塚さん、あなたには見えないでしょうが、あなたの後ろには大勢の天使の姿が見えますよ。あなたは知らず知らずの内にビデオ撮影をされていましたね。それは多くの天使たちがあなたを動かしたのですよ。人々を幸せにしたいと願ってね」。

私の後ろは車両の連結部だった。多くの天使と言われても凡人の私には何も見えないし感じることができなかったが、そういわれれば何かに動かされるようにしてビデオ撮影を始めたのは事実であった。
「天使ねー、そんなものかなー」というのがその時の素朴な感想だった。

この日、福山で行われた講演会の内容は癒しについての理論的な説明が主であった。

その内容は医学ならぬ胃学ともいうべきもので、この時に撮影した珠玉のビデオは門外不出のまま何故かその後15年間温存したのだった。

又、以後20年間の講演会でこの種の話をされたのは皆無である。
長尾先生の“奇跡の癒しの医学的根拠はここにあり”というべき内容の講演を要約すると、

胃は心と密接なつながりを持っている。
過度のストレスや悪しき想念で心が重くなると胃は下垂し、関連臓器も共に下垂したり圧迫されたりした結果、やがて各臓器に不調が生じる。これが病気の根源であるという内容の講演である。

胃と婦人科系の病気との関連や、その他様々な病気との関連性を医学に基づいて詳しく説明された。
この日話された胃学の話は多くの病の原因が網羅されているから、医師が聞けば耳をふさぎたくなる話だろう。

前記“癒しの封印”で述べたように「金輪際癒しはしない」と固く心に誓ったのだが、なぜかこの話を収録したビデオは「いつの日にかきっと役にたつ時がくる」とそう思っってビデオライブラリーに大切にしまっていた。

あれから20年余りを経たこんにち、この時の話がとてつもない役割りを果たすことになるとは、この時は思いもしなかった。

なぜなら、この時の話が基礎となって学んだ結果、多くの人が癒されただけではなく、企業や組織で行っている健康セミナーの礎となっているのだから。
この時収録した胃学の話は後記することとする。

浄心庵講演会での撮影

17浄心庵講演会にて

この時の昭和63年5月に福山・広島講演会、同年11月には熊本へ同行させて頂いたのだがその旅の途路、師匠からこのような話があった。

「私のところの浄心庵で毎月第四日曜日に講演会をしているのですが、良かったら私の話をビデオに撮って全国の皆さんに配布して頂けませんか。

新幹線の片道分くらいは私が負担させて頂きますので」とのお誘いを頂き、翌、平成元年2月から照明家の小嶋さんと共に月に一回新幹線で大阪へ赴き、浄心庵での講演会を記録撮影することになったのである。

浄心庵講演は長尾師が住まわれる自宅の奥にある大広間で行われるのであるが、講演前日ともなると地方から見えた人が多く宿泊され、夏のある時は100人近い人が泊まられたこともあった。

特に福井県や富山県の八尾市から貸し切りバスで見える人が一番多かったが、北は北海道から南は九州まで、日本各地から多くの人が浄心庵を訪れたのである。

それにしても浄心庵に100人も泊まるというのは大変なことである。
夜ともなると50畳の大広間から二部屋ある治療室、更に二階の六畳二間は隙間もないほど布団がぎっしり敷かれ、押し合うようにして寝たものだ。

長尾師は以前、毛布の製造販売をされていたこともあり、毛布と布団は十分にあったので多少無理があるとはいえ、暖かい季節なら特に問題なく泊まることができたのが幸いである。

浄心庵に100人もの人が泊まるとなると先生は大変。
殆んどの人は翌日行われる講演会を聞きに来るのだが、その際に治療を受ける人も多い。

難病・奇病の人、ガンで余命幾ばくもない人、特に病気という訳ではなく、肩が張る、腰が痛い膝が痛い、目や耳・鼻がと、不調を訴える人の何と多いことか。

癒しの順番を待つ人と、奇跡の癒しを見たさに広間はごったがえしている。
先生はそんな人々を夜遅くまでいやな顔もせず、ニコニコと気軽に治療をされたり相談ごとに応じたり、或いは精神世界の話をしたりで疲れを癒す間もないほど忙しい。

講演会前日のこの日、数日前から岐阜の夫婦と子ども二人の一家四人が泊りがけで見えていた。
事情を聞けば家が火事ななって焼け出されたので、長尾先生を頼って来たが「これから当分の間、広島の親戚の家にお世話になるのでこれで失礼します」と先生に挨拶をされ、浄心庵をあとにしようとしているところだった。
先生は「これはお見舞いです。どうぞ一日も早く立ち直られますように」と分厚い封筒を差し出された。

先生は、当惑して辞退されるご主人の手を握りしめ「頑張って下さい。陰ながらお祈りしております」。

世に駆け込み寺は数あるだろうが、見ず知らずの人にここまでされる人はいるだろうか。
先生は浄心庵を去り行く一家四人の姿が見えなくなるまで見送っておられた。

さて、浄心庵での治療は月曜から金曜までなので、講演会前日の土曜と当日の日曜に行われる治療はすべて先生の好意で行われるので無償なのだ。
講演会は休憩中に配布されるおやつ代として500円を支払うが、宿泊費も治療費も無料なのである。

翌、日曜日の10時半から行われる講演会は午前中に90分、午後は休憩を挟んで4時まで行われるのだが、講演が始まると300人以上の人で埋まる為、普段は広々と感じる大広間は立錐の余地もないほどに人で溢れる。

私は畳の上に座った人々でぎっしりとなったその隙間に三脚を立て、小嶋さんは照明器具を据えて撮影するのだから盛夏ともなると大変なことになる。
広間と後方の茶の間、それに二部屋ある治療室にはエアコンが回っているのだが、人の熱気でムンムンとして効かない。

講演を聞く人はそれでもなんとか凌げるのだが、先生は大変。映画照明の大御所、小嶋さんの手によって業務用の照明が先生の顔に直接当てられているのだ。

「焦げ付くようですわ」とは講演中の先生の弁。
小嶋さん曰く
「照明が当てられていない絵はどうしょうもありません。長尾先生のビデオは後世まで残っていくのですから、きちっと照明が当てられた綺麗な映像を残さなくてはなりません」
とのことで、日本の映画照明の草分け的存在の小島さんにかかってはさすがの長尾先生も頭や顔が焦げ付いても我慢するしかないようだ。

実際、その時小嶋さんが言われたように、私のサロンには二十年以上経過した今も十分に通用する綺麗な映像が保存されているのだから。

この頃からスタートしたビデオは以後の13年で千本を超え、そのすべてを現在DVD化しているのが昨今の日課である。

この年の8月からは毎週土日に日本各地で開催される講演会にも同行して、行く先々での長尾師のすべてを記録撮影することとなり、浄心庵講演会と地方講演会で文字通り一年365日一日の休みもなく、ただひたすらに撮影し、編集をしては全国の学びの友に発送したのだった。

八王子にて 編集中 (1)

筆者余談

ここに書いた文面は8年ほど前に、長尾先生のことを世の多くの人々に知って頂く為に本を出版しようと思って書いた下書きの一部です。

出版となると費用もかかるし文才というものも必要でしょうから、ついつい先送りになっていて執筆のデータはPCにバックアップとして保存されたままとなっていました。

ところがこの度、HPのリニューアルをしている時にインスピレーションがあったのです。

「公表しなさい」と心に響いたのです。

執筆原稿としては未熟であり、長尾先生のことをほんの一部だけを紹介したものですので多少のはばかりはあったのですが、天啓に従ってここに記載させて頂くことにしました。

多少なりとも皆さんのお役に立てば幸いです。

長い文章を最後までお読み頂きまして有難うございます。

2018年2月17日 横塚修身

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